子供たちに天国をプレゼントします。シャローム!小野由貴 です。
さわやかな秋晴れの日が続いています。今日もイエスさまが教えてくださった天国の考えについて分かち合いたいです。
(マタイの福音書5:9)平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
平和にする人が神さまの子になるという意味です。
つまり、葛藤のあるところに平和を生み出し、憎しみがあり得る状況でも平和を作り出す人が、天国を持つようになるという意味ですね。 これがどれほど難しいかよく知っています。 皆さんはいかがですか? 私は毎日5人家族と過ごしながら、ある瞬間になると平和を作り出すどころか、葛藤と怒りが心の中を覆い、限界を感じることが多いです。 まさに、愛に対する訓練が十分にできていなげれば、平和をつくる能力は不可能のようです。
平和を作り出すことはなんでしょうか。
いつも優しく話して行動すること、どんな状況でも誰も憎まないこと、やきもちがわく時に、嫉妬を抑えること。私が正しいという考えが心の中に湧いてくる時に、我がままの自我を踏みにじって優しく接することです。まだまだですが、私も平和を作る出す人になりたくて自分自身と戦いながら学んでいる最中です。神さまが私たちの身体を作る時に、ただ愛の目で見ることを望み、愛の行動だけをする手になるよう、愛の言葉だけを話す唇を望むようです。 私も皆さんと同じく与えられた一日、他の何よりも目と手と唇で愛の行動と言葉だけで過ごせるように、楽しく頑張っています。このことを実現することによって心の喜びがますます増えてきました。神さまと天国は無限の愛なので、私の心も神様を愛し、隣人を愛することだけでもっといっぱいになりたいです。神さまが人を創造した時、最も高貴な宝ものを人間と称しました。そうです!私一人一人はたからものです。あまりにも高貴である人に神さまのかたどった魂を吹き込んで、どの被造物よりも最も裕福にしました。
神さまは、この魂だけではなく、魂の一部分である知能も与えて下さり、そして、自分自身と他人を愛する能力も与えて下さいました。さらに、利己心や肉体の欲求をコントロールできる理性と意志も下さいました。このように、知能、愛する能力、理性、意志など素晴らしくて美しい賜物を沢山くださいました。
しかし、悲しいことに、人々は魂の創造主である神さまも真理もよく知りません。 例えばですが、清かった川の水が泥だらけと混ざり合い、澄んだ川の水は有害な湿地に導かれてしまいます。このように最初の人でアダムを創造した時、これらすべては聖くて完全でしたが、サタンがまき散らした毒によって、 肉体という欲求と精神のあらゆる感覚に悪い病気が生じました。
それにもかかわらず、愛である神さまはもう一つの莫大な賜物をくださいました。
めぐみという超自然的な贈り物。ぬかるみのようになった人を再び聖い者にするめぐみ。天国に飛べるようにするめぐみ。神を見られるようにするめぐみ。さらに、神さまの子に呼ばれるめぐみを受けることになったのです。 このめぐみの役割は、私たちの魂を罪による死から守り、神さまの家、天国で暮らすことになるのです。
それでは、聖い者にして命と天国を与えるこのめぐみとは何かご存知になりましたか? めぐみは愛であり、神さまであり、イエスキリストです。 これらすべては私たちの心の中で行われることです。
一人の人間が神さまから受けた、愛というめぐみ(イエスキリスト)を他の誰かに伝えるということには、より深い意味が隠されています。それは、 神さまが天の倉庫から取り出してくださった美しい賜物(魂= 知能、愛する能力、理性、意志 )を使って他の人々を愛し(=隣人を愛し)、利己心を踏みにじってから自分自身を聖い者にし、また英雄的で聖い人生を過ごし、天国にその愛を還す(=神さまを愛し)ようにという意味が隠されています。
愛を込めた崇高で美しい宝物である私たち一人一人は、神さまにかたどったので魂は死ななく永遠に果てしない存在になります。また、愛に対する夢を見たことがすべて実現され、そこに神さまの無限な能力が加わった愛の味を経験しながら生きることになるはずです。
この世では、誰かに嫌われ悪い目にあいますと当然悔しい気持ちになります。しかし、主は敵を愛するようにと教えます。とてもきつく感じるみ言葉だと思われますが、 さらに憎しみや葛藤がある状況に置かれても平和と愛が流れる状況に変えられるようにまでなれ!と教えます。 誰かが私に悪いことを言いますか。 厳しい決断ですけれど愛して許すべきだと思われます。 誰かが私や私の子供を殴りますか。心が痛くてたまりませんが、愛して祈ってあげなければならないようです。 さらに、 誰かが私に怒ったり侮辱を与えたりする時も、我慢して親切で祈る心を持たなければならないようです。 誰かが、貸してほしいと言われたら、あんなにしきりに借りるのは、悪いくせ、悪い習慣だと思わず、愛と憐れみの心をもって、ただであげた方がいいと思います。
なぜこのようなもどかしくて重苦しい行動で反応するのかといえば、神さまがすべてを報って下さるからであります。何よりもこのような行動こそが、愛という天の宝物が流れ、再び天に還すことになるからであり、こういう姿が訓練されていくうちに、平和をつくる人としてだんだん変わっていくようです。
あなたが私を苦しめたからそのまま仕返しするわ」という考え方は、めぐみを失ってしまった人の考えであり、ますます心が荒くなって、後には復讐するのが当然な行動方式として定着してしまうようです。
私の家庭の例を挙げてみましょうか。もう2年前のことですが、保育園で自分たちをいつも殴ってたAちゃんがいました。 そんなある日、娘たちが力を合わせて思う存分Aちゃんを殴ったと自慢するのです。びっくりでしたね。娘たちが殴られたきた事は心が悲しいことです。しかし、暴力を暴力で振舞うこと返す子供たちの姿で言葉を失いました。その話を聞いて夫が厳しく言いました。 <いつもどんな時でも、だれも誰も憎まず、特にいじめる友たちの荒い行動が優しく変わりますようにと祈らなければならないよ!そして、なによりAちゃんを殴ったことで、あなたたちの美しい心がサタンに奪われてしまったのだよ!>と教えました。
すると、娘らが何が間違いの行動だったのかを悟り泣き出しました。そして心の底から悔い改めの祈りをささげ、Aちゃんにも許しを求めたのです。しばらくもAちゃんの荒い行動が続きましたが、繰り返しの中で荒かった性格もすっきり変わり、今はとても思いやりのある子に変わりました。 何よりも娘たちが不当な待遇を受けた時にも、小さなイエスさまの姿で、さらに執り成し祈りを捧げて、愛で返した訓練をしていた貴重な時間だったと心から告白します。これこそが、 神さまのかたどった魂である私たちが、イエスキリストに似ったするべき行動だと思われます。
神さまの最高の贈り物である愛というめぐみを、心に留めておきたいならば、どうような人生をするべきでしょうか。私たちを憎む人を愛し、苦しめる人のために祈り、悪口を言う人のためにかばってあげ、呪う人を祝福し、害を与える人に優しい行動をし、喧嘩好きな人とも平和に過ごし、煩わしくする人にも親切に接し、助けを求める人に喜んで助ける人生を送らなければならないようです。
私たちは人々の行動の理由がよく分かりません。ですので、小さな事においても批判したり判断したりしてはいけないようです。 ただ助けてあげて、いつも寛大に接して慈悲を施すべきだと思います。 神さまは寛大な人に、、いっぱい満たし、ぎゅっと押さえて溢れるほど注いでくださるます。私たちにも、このような経験がどれほど多いか計り知れない証があります。 本当に神さまは私たちが人々に与えた分をはるかに超える報いを与えて下さいます。
私たちは聖書を通してイエスさまに見習いそれを生かすことが出来ます。どんな状況のなかでも平和をつくる親の姿で生きてこそ、子供たちも愛することが何であり、平和をつくることは何か!を学ぶことができるようです。 神さまがめぐみと愛という贈り物を人に与え、どのように使うべきか。また神さまがこの贈り物を持って大好きな人と共にどのように働くかについて、私たちが十分に多く経験することを願っているようです。 めぐみと愛と平和、このような楽しい経験が皆さんの人生の中でも、愛する宝物子供たちに対する教育の中でも、非常に多く経験されることを願いながら祈ります。
この多彩な色に染まった秋、神さまの保護と愛が皆さまに満ちることを願います。^^
それでは、子供たちに天国をプレゼントしましょう。Shalom~Hallelujah