子供たちに天国をプレゼントしましょう。
シャローム~。小野由貴です。
もうクリスマスが目の前に来ています。 イエスさまのご生誕とその方の生き方を思い出し、愛らしく美しい思い出がたくさん出来ることを願います。イエスさまが教えてくださった天国の考え方について、今日も分かち合いたいと思います。
(マタイの福音書5章7節) あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
人をあわれみ深く思う人が祝福されて幸せになるという意味です。 そうすることで、神さまから私たち自身もあわれみを受けるようになるという意味です。誰かをあわれみ深く思うことは、その人が感じる問題を一緒に悲しみ、可哀想な心を持って助けて、愛するという意味を含みます。それから誰かが持っている欠点をよく我慢して、優しく耐えてあげるという意味も含むようです。
イエスさまのみ言葉の中には、愛、あわれみ、慈悲、柔和、忍耐のような言葉がいっぱいですね。簡単に言えば、隣の人にも、自分の家族にも、優しくて愛らしく接して欲しいという意味です。このように優しさと慈悲を施す人の結局は、とても大きな幸せを享受するという真理を教えてくださいます。
もしある人は、「私は慈悲のようなものを受ける必要はありません」と言う人がいますでしょうか? 実際、そのような人は誰もいないようです。特に許しに対してはなおさらのことだと思います。 私たちは多少の差があるかもしれませんが、みんなが過ちを犯しながら生きています。なおさらのこと、神さまにも多くの過ちをしながら生きていくのが人間です。それで、私たち皆、神さまからの許しが必要な存在だと思います。
聖書には、昔書かれた旧約聖書があります。そこには「目には目、歯には歯」という言葉が書かれていました。悪いことにあったならば、復讐してもいいと思われました。しかし、神の子であるイエスさまがこの地に来られて、新しい基準を提示してくださいました。
「あわれみを施す人はあわれみを受けるだろう」と宣言されたのです。 今日分かち合うみ言葉のように「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」と宣言したのです。 なぜなら、誰もが許しをうける必要があるので、このような新しい基準を与えられたようです。お互いの過ちについては、お互いがかわいそうに思い許す姿が必要です。また神さまが嫌いに思うことを数え切れないほど犯したにも関わらず、醜い私たちを肯定的に思って許してくださることが必要だと思います。それなら、神さまが先に私たちを許してくださったことがあるかどうか考えてみてください。
この放送を聞いている方はご存じかも知れません。私たち一人一人を含め、全人類が犯した罪を神の御子イエスさまが、全部背負って十字架で死なせたことにより、人間の罪を許してくださったという驚くべき事実が存在します。神さまのあわれみがあふれて、私たちの罪に対する裁きをおさめたのです。 だがら今、すべての人間は自分の罪を神さまに告白し、イエスさまの死によって、自分の罪をなくしたという事実を心の中に深く受け入れれば、永遠の命を得て、神のみ国へ入ることができる特別な恵みが享受できたのです。
そのように最初にあわれみと愛を施してくださった神さまが、私たちに求めたのは、神さまご自身のように、愛とあわれみ深い心をもって人に接しなさいということです。私たちはいつかは誰でも神の裁きのみ前に立つようになります。そのみ前で生きてきた日についての審判を受けるでしょう。もし私たちの人生が他人にあわれみ深い心を施してた人生であれば、その審判台のみ前に立った時に、恐怖が消えることになると思います。むしろ恐怖が幸せと感謝の気持ちでいっぱいになるかもしれません。
貧しい者の叫びに耳を閉ざす者は、自分が叫ぶときにも答えてもらえない。(箴言21:13)
「幸いなことよ弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に主はその人を助け出される」(詩篇41篇1節)
聖書によれば、今後、様々な恐ろしいことが迫ると書かれています。そのようなことが起こる状況の中でも、毎日あわれみ深い心をもって行なう人には、神の怒りが下らないという約束もたくさん下さいました。それがために、あわれみ深い心を施すことがどれほど重要なのかを知る必要があるようです。今後いつかは、この世の中は、裁きという恐ろしい時間を過ぎなければなりません。しかしですが、実は裁きが神さまのご本性ではなく、あわれみが神さまのご本性です。人の心があまりにも頑固なので、世の中を維持するために、罪をなくすために、審判が必要な状況になったようです。
しかし、私たちが常に覚えてほしいことがあります。 イエスさまが十字架につけられたことで、ご本人が最も大きい裁きを受けました。そして、その事実を信じる人々、つまり十字架の血の恵みの下にいる人々には、決して裁きを受けないという事実を覚えてほしいです。
それにもかかわらず、世界と人は愚かな道を続けているようです。つまり、あわれみの道ではなく、利己心の道に向かっているようです。私たちがどれほど他の人を批判していなかったのか、あるいは他の人をどれほど裁かなかったのかに応じて、神のあわれみが施されるでしょう。もし、私たちが人に対して接し方が、荒く過酷に対処し、君臨するならば、私たちにくだす裁きはとても恐れるべきでしょう。
しかし、私たちが恨みを抱かれる状況でさえも、相手をかわいそうだと思い、あわれみの心を抱くならば、神さまの驚くべきあわれみが施されるでしょう。あわれみ深い心を施すことにいつも邪魔するものがあるとしたならば、おそらくそれは利己心のようです。人の中には、 自分のものを惜しまず、周りの兄弟や姉妹たちに、心をこめて施す人生を生きる人がいます。 あるいは、あまりにも利己的であり、施すことをけちけちしながら生きる人もいますね。
実際、 私たちが頭に様々な知識を入れるよりもはるかに重要なことがあります。それは、自分の利己心についてしっかり悟らなければならないようです。 なぜなら、神さまは私たちの中で最も誰かがあわれみ深い心をより多く行っているのか。それによりたくさんの神の祝福と栄光を受けられるかと見守っているからです。一種の競走のようでもあります。 世間的な競走ではなく、愛を誰がもっと多く施すのかに対する競走です。神さまがとても大事に思うあわれみ、慈悲、柔和、忍耐などのような競走ですので、天国でも大きい関心を持って一人一人が行うこの競走を見守っているようです。
私たちが競争(愛、あわれみ、慈悲、柔和、忍耐…)で倒れる時は、神の使い人である天使たちが、いつも素早く駆けつけてきては、起こして、そして最後最後まで走り抜くように助け、私たちの利己的な心がますます神さまのあわれみ深い心で変化されるように手伝ってくれます。その最後はあわれみの神さまの心に似て行くように導いてくださる競走のようです。
私たちは子供たちに、かわいそうと思う姿、慈悲深い姿、優しく接する姿、助ける姿、貧しい人の面倒を見る姿などをたくさん見せているかもしれません。 このような姿は知識から学べるものではないでしょう。 親の姿を長い時間見ながら自然に心と体で覚えていかなければならないことだと思います。
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」というみ言葉の中には、天国の秘密が隠されいます。
私たちが先に述べていた姿を行っていなければ、魂のないただの言葉遊びに過ぎません。結局は、いつの間にか親も子も、当たり前に思う利己的な人生を生きていくようです。 私の家庭もあわれみ深い心をもった姿、もっと寛大な姿が足りない面がいっぱいでした!しかし、本当にありがたいことに、み言葉の中で、神さまの心に気付き、悔い改めるようになりました。 それで、身の周りのことから整えて、毎日の生活で実践しながら、少しずつ良くなっていることを目にするようになりました。 なにとぞこのポッドキャストを聞いている方々にも、あわれみに対する神の恵みが豊かに注がれて… 家の中、より多くの幸せと祝福が溢れることを願いながら祈ります。
子供たちに天国をプレゼントしましょう。ハレルヤ~!メリークリスマス!!