004 神様 vs. 罪とサタン

人間を造り数多くの人たちをこの地に送る時、愛なる神は各一人に対して美しい計画を持っておられました。愛に関する美しい計画があり、私たち一人一人はお互い愛し合いながら、驚くほど美しい共同体を築きながら生きていくように造られたのです。しかし、サタンは最初の人であるアダムとエバを罪に誘惑しました。その結果すべての人類は日常茶飯事に罪を犯しつつ生きていくことになり、この世は寂しさ、痛み、涙で満ちたところになったのです。

罪の意味と実体
罪とは何でしょうか、罪の根本は何でしょう?神の意志は‘愛しなさい’であり、それを拒否するすべてが罪となります。隣人を愛せず虐めること、隣人の必要を満たさないで、自分の必要だけを満たすこと、相手の意見を尊重し愛するべきなのに、私だけが正しいと思ったり叫ぶこと、譲って愛さなければならないのに、傷つけられたとして怒って相手を傷つけること、貧しい人を憐み手助けするべきなのに、ちらっと横目で見て見下したりすること、弱い女性を赤ん坊のように保護するべきなのに、みだらな目でじっと見ることや、性的な犯罪を犯すこと、自分を低めて相手を高めるべきなのに自分を高めて相手を低く見ること、お金を人より愛すること、物やお金を親より愛することなど、私たちは数え切れないくらい、愛しなさいという神の意志を無にして生きています。神の正義の法は、人のあらゆる法とは比べられないほど、鋭く繊細なものです。
兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。(ヨハネの手紙一 3章15節)
この神の御言葉の前で誰が殺人したことがないと言えるのでしょうか?神の御言葉という鏡で私たちを照らしてみると、心の中の考え一つ一つが有罪審判を逃れない罪でいっぱいです。この神の御言葉は脅しのレベルではなく、実際に執行される天の法です。そのため誰がイエスキリストの血が流されたこと以外によって救いが得られると思えるでしょうか?真実に、私たちはイエスキリストの死がなかったら救いにいたる道が一切ありませんでした。主も私たちの弱さと罪深さをご存知の故に、主の最も深い愛の方法である十字架を通して、私たちを救ってくださったのです。

罪の根源はサタン
罪の根本は何でしょう?アダムとエバを誘惑したサタンです。私たちが愛せなくなったすべての原因は、サタンから始まったのです
(創世記 3章1~5節) 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
有名な禁断の木の実の事件です。この中にすべての罪が含まれています。善悪を分かることについて、蛇は最初の人を誘惑し、人は神から与えられた自由意志をもって、善悪を分かるようにと心に留め、神の意に逆らったのです。善悪が分かることは、善悪を自ら判断しようとすることです。 一見したら良いことに見えますが、その中には怖い毒があったのです。‘自己愛’‘自己を高める’というプライドと傲慢の毒が隠れていたのです。自分が自分を愛して、自分を高める方向を選択したのが、全人類にとって毒になりました。つまり、‘愛しなさい’と仰った主の意に正反対側に立ったのです。

その結果、今私たちの考えがどのようになっていったのかを見てみましょう。今でも私たちはお金があるかないかで人を判断します。地位の高さ低さで人を判断します。強いか弱いかで頭をさげるか、気軽に接するかを判断します。頭の良い人かそうでない人かで判断します。可愛いか可愛くないか、背が高いが低いか、体つきが良いか良くないかで判断します。 服装のスタイルが良いかそうでないかで判断します。このすべての判断の根本には、自己のおごりの心でいっぱいになっているだけです。そして私たちはお金をもつこと、高い地位につくこと、強くなること、頭がよくなること、可愛いくなること、いいスタイル、物をたくさん持つことなどに一生涯翻弄し、子どもにも懸命にそれらを教え込んでいます。そうでない人を判断した上で見下し、自分はそのようにはなりたくないと、不安まで抱きながら、傾きながら走っています。結局、‘愛しなさい’という絶対的な真理の教えから遠く離れていくのです。これが禁断の木の実の結果です。今も私たちは皆、口に禁断の木の実を口にして生きているのです。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。 」(ローマの信徒への手紙 3章10節)
上記のように、主がご覧になる時、愛を完全に行う人が一人もいない状態になったのです。つまり‘ 自己愛’‘自己を高める’‘判断’は罪の始まりになったのです。根本はサタンから来たのです。サタンの属性も‘ 自己愛’‘自己を高める’‘判断’この三つです。しかし、神はご自分の命を捨て私たちを救い、完全なる愛そのものです。2000年あまり前、主はイスラエルの地に自ら肉身を着て人として来られ、愛の姿を教えてくださいました。聖書のマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書に読んでみると、イエス様はどのように愛を行ったのかが分かります。

私たちがどれほども愛について知らないから、‛愛の標本’を自ら見せてくださったのです。そして私たち皆がその愛の道を付いてくることを願っておられます。今あなたにも、主は選択することを求めています。主の愛の道に付いていくか、サタンの道‘自己愛’‘自己を高める’‘判断’に付いていくのか、選択を求めています。選択はすべてあたなによるものです。誰も強制することはできません。親やいくら尊敬している人であっても、強制はできません。さらにあなたをお造りになった神様も強制しません。ただ、自由意志をもって、あなたが選択する領域なのです。

自分のための人生
聖書では偶像礼拝の罪をとても深刻に扱っています。偶像礼拝とは、人の手で作った造形物とか自然のあるものに神が隠れていると思い込んで、その前で敬拝し、何かを祈ることです。しかし、聖書では‘自分をためにすること’‘自腹’が偶像だと言います。次の聖書の内容は偶像を作る姿を描いています。少し長いですが、詳しく読んでみましょう。
(イザヤ書 44章11~17節) その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。 鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。木工は寸法を計り、石筆で図を描きのみで削り、コンパスで図を描き人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り神殿に置く。彼は林の中で力を尽くし樅を切り、柏や樫の木を選びまた、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め一部を燃やしてパンを焼きその木で神を造ってそれにひれ伏し木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし肉を食べようとしてその半分の上であぶり食べ飽きて身が温まると「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造りひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。
偶像を崇める人の動機は結局、‘自己愛’‛自分のため’に過ぎないのです。
彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 (フィリピの信徒への手紙 3章19節)
こんな神、あんな神、どんな神であっても、偶像礼拝の実体は、結局自分の腹のためにほかならないのです。すべての‘祈り申し上げる’の中心には‘自腹のために’との罪の本質を持っています。

罪に対して私が話せるほんの一部だけを語りました。しかし、主が教えてくださるのは、数百、数千倍になるでしょう。聖書が話す罪について深く黙想すればするほど、まるで一人も抜け出すことができない、罪の勝利を見ているような息苦しさを感じます。にもかからわず、‘そんなことなんてないさ’と言い、神の法を無視する方法もあります。どれもあなた次第です。

人には真に善であることと、真に悪であることを分別して、善を選択する自由意志がありますが、既にすべての人や世の中が悪で染まっていて、つまり禁断の木の実を口にしているので、私たちは知らないうちに、あまりにも悪の方に傾いています。すべてが傾いて‘愛しなさい’との教えに従うことができなくなったのです。しかし、万が一、一人の魂に向けた主の愛が彼の骨の骨髄まで浸み込んだら、罪が二度と彼の人生を支配できないでしょう。つまり、自分を愛した人生から立ち返って、隣人を真心で愛しながら生きるようになります。しかし、彼の魂が主に頼らずに‘この程度でよい。これ以上はできない’と言う時に問題が起きます。そこで彼らは失敗し、罪の中に陥ります。 しかし、あなたたちが自分に対する神の崇高で深い愛が浸み込むように心を許したら、罪が絶対に入らないのです。一人の魂が主の愛に満ちて、罪を犯すことは不可能です。しかし、彼の魂が主を望むのではなく、主の前に一線を引いたら問題が起こります。あなたは、あなたに向かって手を差し出してくださる、主の前に一線を引きますか?それとも、その手を握って、主をあなたの心の深いところに迎え入れますか?

自分をためにした人生の結果
罪に従った人生では、多い業績に達しても‘自分を愛し、自己をおごって、自分のために’したことは天国の実になれません。ただの深刻な荒れ地状態で、実はありません。 しかし、寒い冬にホームレスのために温かいお茶を渡す手には、天国の実が豊になります。これは実際のことです。天国や愛に関する主の教えと主を信頼しましょう。主を信頼するだけで、主はあなたに主の愛を証明し見せてくださいます。あなたたちが主の愛に包まれる、素晴らしい天国の姿を経験できます。そして自分の欲に従って生きていた時に、決して理解出来なかった古い矛盾が理解できます。目に見える現象の裏に隠れている神の秘密と真理を分かるようになります。

もしあなたが主の愛を経験したことがあるなら、その愛を他人に現すのも聖なる責任です。主の愛が分からない人に対して、無知のままで生きないようにしなければなりません。隣人に対する主の愛の香りを広めていくことに全力を尽くしましょう。実にできるだけすべてのことをするように、主は願っておられます。主の愛を持って、いろんなところに行き、地上の隅々まで行きます。屋根の上で主の愛を宣言し、地球の奥地と陰った地にも主の愛を送ります。それはそこの人が今まで受けたことのない愛で、彼らを愛するために、主がご自身ですべての人間をお呼びになっているからです。この愛はとても崇高で甘い。その根源の無限な境に致したくて、数年間苦労をしても、私たちは依然として氷山の一角にしか分かることはできないです。真に言葉で表現できない、深くて深い愛です。

その愛はとても広大で、たった一人も見逃すことができません。主は人間の中で最も邪悪な人さえも諦めないのです。彼らが悔い改めるなら、両手を開き迎えてくださいます。主の限りない憐れみの門は、まだ閉じてないです。今でも開いています。まだそこには希望があります。そしてあなたが自分の人生で主を愛し、主があなたに何かを呼び求める時、それを堪えられないことはありません。主のために、できないことは何もありません。

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私たちには住む家があります。仕事や勉強をしてから、帰って休む家があります。肉体を着ている私たちの魂も、永遠の宿があります。私たちを形づくり、一生を通じて見守ってくださる主は主の家である天国に導いてくださいます。主を心に受け止める者は、神様によって豊かさを経験し、主の家に導かれます。主はこの地にも特別な恵みを受けた人に、御国の驚くべき光景を見せてくださいます。