主を一つの単語で表現するなら、その単語は「愛」です。ですから、主の創られた天国も愛に満ちあふれるところです。主が、一人の人に対して、もっとも価値あると見られていることの中の一つは、愛に対する信実さです。隣人と家族を愛する心が、どれほど信実であるかを大切に見ておられます。愛はすなわち真理であるからです。真理があるところには振動があります。とても小さい振動ですが、力があります。私たちが、愛と真理を話す時、振動派が一つの魂の心の奥の深いところに入ります。そこで根を張って、決して離れることなく、その人の一部になります。
主は、主のすべての子らが愛に関して、見せかけではなく信実になることを願っております。しかし、愛に対して信実になるためには、それに伴う費用が伴います。私たちは、幼いころから自分の弱点を隠して、強くて完璧な印象を与えるように教えられてきました。内面は、柔らかく傷つきやすい存在なのに、このような自分を守るために見せかけと厚い壁を建てるように育てられてきました。これがこの社会の生き方です。このような生き方は、この世での神の国とは全く関係がないのです。私たちは皆、欠点の多い人間であって、神ではありません。私たちが欠点を隠し続けると、私たち自身と他の人の愛に関する魂の成熟のチャンスを断ち切ってしまうことになりかねません。
人生と魂の欠点
欠点が公開された時、欠点は手術台で治療を受けなければなりません。その欠点に対して、他の人々は耐えることは難しいでしょう。その欠点によって継続的に傷つけられるからです。しかし、主はその欠点が現れることを許してくださり、その問題を解決していきます。そして、私たちも主と同じことをするように、願っておられます。そのため、私たちも他の人の前でよく過ちをおかすのです。私たちの過ちの欠点により、私たちに悔しい思いをさせる人が、いつも目の前で現れる所以がここにあります。人々の間で形成された堅固な愛の連合がなければ、人々はそれぞれの島のようになって、隠して、暗くて、恥を感じて、あいまいになって、心を閉めてしまいます。この状態が現在の世の姿です。しかし、天国はそうではありません。天国ではすべての考えが公開されて、すべての人に見られます。互いに暖かく抱いて、同情が満ちあふれ、何かが足りない人を慰めるために、包容と緩やかさと憐れみが集う場所であるからです。愛、そのものである神の御心とそっくり似ている国であるからです。
愛がますます伸びる
天国で私たちは、愛に対して高いレベルで変化するはずです。にもかかわらず、愛に対する理解と深さは、持続的に伸びていきます。そして、私たちがついには持っていられなくなるのが罪です。天国では、私たちが質問しようとする時、すべての知識を知ることになるでしょう。しかし、知恵は得られるという属性があります。知恵を開発するには、時間と経験が必要です。この世には、知恵がとても不足していますが、天国では各々の魂が、より深い理解と愛のために、無限な力を持つようになります。この領域は求めによって、複数の層にわたって大きく開かれるでしょう。一つの魂が知恵を求めるということは、何かについて切に問い求める時に発生します。天国でこのような切なる求めは、いつも愛と癒しに関係があります。天国のすべてのことは、実に愛がその根本の動機として行われます。
天国では、この世で見て経験した機械や建築、文化など、そのいかなるものよりも豊かで深い経験ができることでしょう。その一つ一つさえも、命を豊かにし、改めて動機を持って始まります。そして、これらも愛からあふれ出る贈り物なのです。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。(コリントの信徒への手紙一 13章8節)
愛は貴い価値を持つ粒子です。他のすべてのものは、愛に属する副次的なものです。天国の動機と天国を維持する力は愛です。その基に愛がなければ、天国では何も生じません。この世の科学者たちが、分離して捕まえてみようと努力するその粒子が、まさに愛なのです。もし、この文章を読んでいる方が、最小粒子に関する研究をしている科学者でしたら、この言葉を耳に掛けられますと、多くを得られることかと思います。「すべての物質と力の最も基礎は愛です。」愛は決して捕まえることができないです。なぜなら、愛は神様に属しているものであり、神様は絶対に捕まらないからです。あなたは、あなたの時間を無駄にしているだけです。主は万物をそのように考案したのです。創造の時から、人間の自由意志は堕落することを主は知っておられ、ついに今の水準まで落ちてしまうことも、既に知っておられたから、このように考案されたのです。
話がつい横道にそれていましたが、再び、愛に対する信実、透明さや弱さの話に戻りましょう。主が主の子らに願っておられることは、欠点が現れることを許し、それを抱いてくださるのです。欠点が現れても、それを抱き上げる関係を願っておられるのです。実際にこれは安全なことです。この世で、天国の姿を成していくことでしょう。条件のない愛を実際の行動に移していくのです。一人の人が、公に自分の欠点を告白でき、それを暖かく抱いてくれる雰囲気が作られることを、主は望んでおられます。これは理解と癒しが合わさったものです。この世でほぼすべての人が同じように、欠点を持つ人を孤立させて、疎外させることではないです。
欠点を隠すこの世
孤立は人々を狂わせてしまう状況にまで追い込みます。世の中との絆を断ち切ってしまい、自分の欠点は、全く公開されないで、癒しも受けなくなります。二重生活を送ることになります。日本でも、韓国でも、このような人々の数が増えています。私は大丈夫だろうと考えているかも知れませんが、ほとんどの人々が程度の差があるだけで、このような姿をすべて隠して生きてゆきます。他人に納得できるようなことだけを見せて、あることは内側に隠して生きてゆきます。この両面がお互いに和解された時、私たちは癒され、完全になります。この両面がお互いに分離されたら、これが病となって、成長の障害になります。私たちは成長もできず、前に進むこともできません。私たちは、自分の暗い面を隠し続けながら、自分自身をずるずる引きずっていく形となります。実際に存在するこのようなことに向き合って元気を出し、立ち上がっていくべきです。このような二重生活は、絶えず疲れてしまうだけです。私たちがありのままの存在になることと、そのために努力することが、ずっと簡単な道です。現れるというのが大事ですが、いつも相手をより繊細に理解し、配慮し、抱いてくれる心と知恵も一緒に必要です。そうしなければ、公開!公開!だけを叫び、傷つけることになりかねません。
欠点に対する神様の方式
私たちの人間関係や集まりで、主が目標とされるのは魂が自由に自身の欠点と戦うことを許され、批判や浄罪ではなく、愛を持って抱き、その問題に対して共に努力することです。これが望まれているのは教会の共同体です。例えば、すぐに怒ってしまう人が共同体にいれば、その人がいない集まりで、その人を悪口を言うのではなく、真心を持って、その人のために暖かい心をもってケアをしながら、祈る共同体でお互いに努力するべきです。そうするとき、その人は変化し、愛の内で育っていきます。その場所こそが、愛があふれ出すところであり、お互いに命のパンを供給し、お互いを健やかにするところなのです。心が傷ついて、足を引きずっている弱い人を慰めて、世話をする親切な魂を、主はどれだけ愛してくだるかわかりません。心が傷ついた人は、あなたの前で泣く姿で表現する場合もありますが、むかつきをあらわにし、憤る姿、せっかちでイライラとする姿で現したりもします。このように、さまざま足を引きずっている姿に対して、心広く抱いて聞き従うことができるのが包容です。
このように、心広い包容の姿が実際に現れること、これが天国の姿なのです。まさに、天国に訪れたすべての人々は、あらゆる考えが皆に完璧に見せてくれる事実を経験します。ある魂に苦難があれば、皆が集まって、抱いてくれて、慰めます。
一人の人が 天国で、このような経験をしました。
“私はある聖なる一家族と一緒に夕食に招待されました。”私の考えで、彼らは、まるで1800年代の人のように見えました。神様に、100%献身された聖なる人生を送っている人でした。私たち、皆が、テーブルに囲んで座っているとき、ある女性が歩いてきて、私は、彼女の文章力に対してとても尊敬をしていました。彼女はイエス様の向こう側に座って、私はイエス様の左側に座っていました。私は嫉妬を感じました。その瞬間、部屋でいた皆が食べることを止めました。そして、私が嫉妬を感じたその女は立って、私に来て、私を抱きました。皆が私を慰めました。自分も地上に住んだとき、嫉妬を経験しましたが、ここ、天国ではそのような感情はもう存在しないと言いながら、慰めてくれました。”
そうです。天国では、ねたみや嫉妬がないのです。嫉妬は、ひどくねじられた醜い感情です。その根から、多くの罪が生じます。天国では、本当に、誰も嫉妬を願いません。しかし、このような、否定的感情を持って、天国を訪れた女性を非難する代わりに、皆が彼女に近寄って、慰めて、自分がその罪と戦ったことについて告白します。天国では、ただ、愛と包容と暖かい慰めだけが存在します。そして、主はこの世を生きている私たちが、包容する天国の心を抱いて生きるように、訓練させます。
もし、すべての人が、自分の欠点をお互いに告白し、互いに癒しの祈りを受けるなら、この世では、心を病むことは存在しないでしょう。この世で当たり前の生き方を、主はこのように考案してくださったのです。しかし、自己愛、自我、傲慢(プライド、自慢、私が正しい、自己を高める)と貪欲のせいで、人々はこのような生き方を投げ捨ててしまい、罪にまみれた暗闇で生きていきます。
愛でできた天国と、その中にある私たちの宮殿は、主だけが、一人で作るものではないです。私たちが、この世で生きながら、愛に対する主の御心を行いながら、主とともに作っていくものなのです。