子供たちに天国をプレゼントしましょう。 Shalom~小野由貴です。
2022年です! 今年も主の愛と保護が満ち溢れますように祈ります。今年もイエスさまが教えてくださった天国の考えについて続けて分かち合いたいと思います。
(マタによる福音書5:8)心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
心のきよい者は神さまを見られるとイエスさまはおっしゃいました。心がきよいということがどういう意味でしょうか。
例えば、部屋の床や机の上に物がたくさん散らばっていたり、物が溢れすぎたら綺麗とは言えないですね。しかし、必ず必要なものだけが揃ってよく整えられているのがきれい!
清潔と言えるでしょうね!~!
このように、世の中に対する関心があまりにも多かったり、自分自身のためのものがあまりにも心の中に溢れすぎた場合、それはきよいとは言えないようです。
言い換えれば、心がきよいであるということは、私たちの心の中に必ず必要なものだけが揃ってよくととのえられているようです。
世の中の価値観に沿って生きている人々は、人生の流れがほとんど自分の利益のために動いているようです。しかし、神さまに属している人々は、人生の流れが神さまの望みである、隣人を私のように愛し(隣人への愛)、全力を尽くして神さまを愛すること(神様への愛)に集中し、毎日生きていくようです。
「自分のために…」何かをすることは、非常に基礎的で、最小限のことをしながら生きているようです。結局、 主が望む心のきよい者は、 毎日の生き方に対して、思考の純潔さ、思考の中でも意図の純潔さ、そして行動の純潔さを望んでいるようです。
聖書が語っている「心のきよいもの」について理解するためには、聖書の中で肉体と世の中について、よく知っておかなければならないようです。そうでなければ、「心のきよいもの」を、非常に抽象的で観念的に考えてしまう傾向がありますね。
まず、肉体の欲求に関わるもの(食べること、見るもの、欲しい物、お金、ルックス)などが人生の中に多ければ多いほど、人は自己中心的になる傾向があります。それほど心が乱れるようになるようですね。これとは反対に、肉体の欲求を最小限にして必ず必要なものだけにして、自分に与えられたゆとりがある時間、お金、才能、努力を自分の家族や隣人を愛するために一生懸命注ぎ込む人は、それほど心のきよい人になるようです。
人は毎日、自分の体のための人生なのか?それとも愛のため犠牲する人生なのか?この分かれ道で多くの選択をして生けなければいけません。そして、神さまは、私たち自分が自分のことばかり大事にしすぎたことにより、心のきよさから離れないように願っておられるようです。
子供たちも成長するにつれて本能的に見るもの、食べること、欲しい物、お金、ルックスなどへの欲求が発展します。子供たちを大切にすると思って、好きなように思いっきりさせてあげたら、その結果はどうなるでしょうか?非常に多くの親が「私が子供のためにどれだけ犠牲をして多くのことをやってあげたか…」と言うことを耳にしたりします。本当に親は愛する子に対して、何も惜しまずあらゆる愛を全部注ぐつもりで思っており、実際に多くの場合が出来る限りやってあげてます。
何より大切なのは、子どもたちに肉体の欲望を従わないことを教えることが重要でしょうね。そうしてこそ心のきよい者になり、神さまを見ることや天国に行くことが出来、それを人々に知らせることも出来ます。それから、その心の中から甘い愛の香りと善い贈り物が出てくることができるからです。
我が家の子育ての中に一つの例をあげたいと思います。
ある日、娘たちにプレゼントとしておもちゃピアノが贈られてきました。これによって、3人の娘が泣きながら大喧嘩をしましたね。子供だからこそおもちゃの前で、節制、忍耐、譲りなどを教えていたことが崩れることは当たり前です。笑いが止まらなくなる可愛いオテンバ娘ですが、大喧嘩する姿をじっと見ていてちょっと口をだしました。
おもちゃのピアノを独り占めのために戦うことを選ぶか、でなければ3人で仲良く遊ぶか。どうすれば良いのか話しあって決めなさい。と言いました。 すると結果は、順番を決めておもちゃのピアノを弾き、その時おもちゃを持っていない2人は紙ピアノを作って弾きます。と可愛らしい答えを持ってきました。解決方法はおもちゃを買ってあげれば簡単です。しかし、これからもっと厳しい局面に陥っている状況の中でも、愛(忍耐、親切、譲り、助け合い)することを優先に考えられるようにするための教えです。 この子たち自ら、おもいやりの行動をする子に成長して欲しい願いでもあり、 成長するにつれてますます愛を施す内面が優しいながらも深く、強くなるようにするためです。
愛する子どもたちに、何を教えたいのかじっくり考えてみる必要があるようです。 子供たちに、親自らも心の中に解けないいくつかの質問、肉体の欲求中心の人生を教えたら、その結果がどうなるかじっくり考える必要があるようです。
このことを言う私も、数えきれない欠点が溢れてます。今もまだ肉体の欲求との戦いながらも、依然として利己的な時が多くあります。しかし神さまの御心を悟る度に、自分の愛の無さに対して苦しみもがきながらも努力しています。このような未熟な点が沢山溢れるマーマながらも努力する姿を娘たちが見ていますね。それなので、親とともに少しずつ成長する姿が見えます。その結果、最近子どもたちもですが、愛する事に対して失敗する事があっても、暗くなった気持ちを速く回復して、再び愛するためにすぐ明るくなり、自分を殴った友達を憎まず「心の優しい子になりますように」と真心を込めて祈りを捧げては、親切にする姿を備えていっているようです。
もう一度まとめますと、心がきよくなればなるほど、神さまの心や考えを少しずつ知ることになるようです。即ち、神さまの考えは、肉体と世の中の考えとは反対側にあるので、天国の知恵を持つようになるようです。この時、神さまの考えをずっと黙想して祈り、行動に移すほど、自分の体の欲求と世の中の価値観はますます消えていくようになるようです。そして、心はますますきよくなり、ついに神さまをみることができる境地にも至るようです。
(ローマ人への手紙8:7)
なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです
そうですね!肉体の欲求を追い続ける人生を生きるのか、神の考えに従う人生を生きるのかは、全面的に自分自身の選択にかかっているようです。そして、その選択は、愛する子供たちにも非常に強い影響を与えるようになるようです。
この頃自分の欲求に従うより、 神の考えに従う人生を生きるある素晴らしいパン屋さんの話を紹介します。このコロナの影響でパン屋さんは売上が減ってるだけではなく、借金まで増えた状況にあります。そんな時、パン屋さんは自分も苦しい状況なのに、自分より生活が苦しい人は食べ物さえも十分ではないと思い、自分が出来ることのパンを作り、毎日一定量を無料で配布していました。それで、このパン屋さんの事情知っていた人々は、パン屋さんの「 貧しい人々に役に立ちたい」と善い行いを切っ掛けに、食べ物を持ってきて分け始めることに、参加することになりました。食べ物だけではなく生活用品までもってくる人も増えました。みんなが生活の苦しさで飢えは続くものの、心が幸せになる時間を過ごしているそうです。 なんという暖かい知らせなのか、聞いて感動しましたね。
この世の中を構成する肉体と社会という幾重(いくえ)もの保護装置が一つずつ揺れるたびに、より自分の肉体のためにできることはすべてすると思います。しかし、パン屋さんのように、イエスさまの考えである、神さまを愛し、隣人を愛す人は心のきよい人です。
つまり、心のきよい人は、自分を超えてまわりの人々にも天国の一員としてアイデンティティーをより明確に悟らせることができます。それから、自分が置かれている苦しい状況でも、最高の善い行いが何なのかを知り、周りの苦しんでいる人々に、進んで最善を尽くします。さらに、お互いの痛みや苦しみを共感して、愛を施して、相手のその魂の究極的な価値を知らせ、確信させることまで行うようになるようです。
なぜそこまで出来るかと言いますと、まず、主イエスキリストが、すべての苦しみを受ける人々のために、自分の命をかけて慰めと愛を与えて下さいました。そうですので、クリスチャンたちも キリストイエスさまのような道に従うようです。心のきよい者の人生とは何なのか、肉体の欲求に従うこととは何なのか。もっと深く考えてみると良いと思います。
宝のような愛する子どもに、肉体的欲求に満ちた暴君として育っていくか、心のきよい愛の言葉と善い行動がいっぱい感じられる子どもとして育っていくか、深く考えてみてほしいです。今年2022年も主の保護と愛が、あなたの日々の生活の上に満ち溢れることを願って祈ります。
それでは、子供たちに天国をプレゼントしましょう。Shalom~Hallelujah