この地に住みながら、私たちは多くの困難に直面したり、幸せを経験したりします。あなたが経験した喜び、悲しみ、痛み、寂しさ、幸せ、満足、自慢、誇らしいすべての瞬間を共にしてくださる一人の方がおられます。私たちを創造し、すべての瞬間を私たちと共ににおられる、愛の神様を紹介させていただきます。
私たちがこの地に生まれたのは、ただ両親によって生まれたのではありません。すべての人間は、神様のふところの中から生まれ、神様の御手によって造られました。私たちは両親の肉体を通って生まれましだが、私たちの命の源は神様です。そして、神様はこのすべてのことをイエス様と共になさいます。私たちの目の前に建物があり、バスが通ったりすることがあるように、主の存在と主の愛は実際にあります。このような実際に存在することについて分かち合い、あなたもその愛の深さに浸ることができるよう切に望みます。
痛みを共になさる方。
主は今も主の愛を知らない多くの人々のために悲しんでおります。寒さに震えて痛みや苦しみが体の中の深いところに食い込んでいくとき、どこかの絶対者を探し求めるために、寒い夜空を眺めながらつぶやいて迷っているときに、本当に主は、その魂の痛みを悲しんで、主の存在と主の愛と主の意味を知らずに、さまよっていることに心を痛められます。そして、この痛みを共にしながら、何とか助けようと熱心に尽力する人たちがいます。私もその中で一人です。このように、隣人の痛みを主と共に悲しんで、隣人の幸せを主と共に喜ぶ人生に召された人々がいます。彼らはキリスト教信徒やもしくはカトリック信徒でと呼ばれるクリスチャンです。
私はクリスチャンとして、まず頭を下げて謝罪します。私たちは、主の愛を皆さんに伝えることものとして不十分なものでした。隣人を愛するようにと学んではいましたが、自己中心的な人生を歩んでいました。隣人の足を洗って生きるようにと教えられましたが、隣人を見下し無関心であり、主の御言葉である真理の聖書を難しく伝えていました。それを受け入れない方々に対して傲慢に行動しました。心から頭を下げお詫びします。
今までクリスチャンはあなたがご覧になった通り、見た目の悪い存在でした。しかし、それでも主は信じる者と信じない者を区別されず、永遠に変わらない真理を簡単な言葉で説明してくださり、この真理を妨げるすべてのものを取り除かれようとしてしています。
主の道は単純です。つまり、真理は単純です。その道は愛の道です。真理の道を妨げる人たちは主の御心である、愛の行いを捻じ曲げ、反復して暗記しなければならないものにしてしまいました。ですから、クリスチャンの多くが神様を紹介する時に恐れます。しかし、神様は私たちを造られた方なので、両親よりも近くにおられ、親友よりも近くにいるという事実をお話ししたいと思います。これから私自身の友であるイエス様をご紹介したいと思います。
喜びを共に感じるその方
主はあなたが向かうすべてのところに真に共におられます。神様は、あなたの心の中の渇望や歓喜の声を聞いていてくださいます。春に万物が生き生きとし、新芽が芽吹く頃、主はあなたの心が喜びの声をあげるのをご覧になり、共に喜んでおられます。あなたが秋の金色の落ち葉の上に横になり、野原のあちこちに咲くコスモスの花を眺め、秋を楽しむときも、神様はあなたと共に喜んでおられます。
主は生まれたばかりの子犬の可愛いらしい動きをご覧になり微笑み、あなたの最愛の犬がこの世から旅立つ時も、あなたと一緒に涙を流されます。神様はどんな時でもあなたと共におられ、あなたと非常に親しくなさっている方です。あなたが神様を認識できないとしても、主はあなたがいるところにおられます。あなたの愛する誰かが亡くなった時、主はあなたに平安をもたらし、その人に「さようなら」と言って別れをすることができるよう勇気をくださいます。主はあなたの心の中にある悲しみをゆっくり取り去ってくださいますので、その悲しみにあなたは圧し潰されることはありません。また、神様は子宮に新しい命を与える時、その子が成長するにあたり必要なものすべてを備えてくださいます。
あなたのすべての人生を共に
神様はあなたのすべての人生を支えてくださる働きをなさいます。神様は実にあなたと近くにおられます。 主はご自分の存在をあなたの前にあらわさられるまで、あなたはその方を認識することができません。あなたがその方を見つけた時、喜びがすぐそこにあふれます。
「主よ、あなたは私の母が亡くなった時、そこにおられましたね。私が自分の人生を変えた職業を見つけた時、主はそこにおられました!私が子猫を捜すために、動物保護センターに行った時も、主はそこにおられました。主はいつもそこにおられましたが、私は決して知りませんでした。救急室に運ばれて、「もう私は死ぬんだ」と思っていた時、主が私をに安全につかんで下さったので、私は恐怖に 圧し潰されることはありませんでした。私は虐待されて一人になった時も、主は私と共にそこにおられました。私は主に「もう十分です!」と言った時までも、私と共におられました。」
「主よ、あなたは私が新しい生活を始めることができるように、勇気をくださいました!あなたは私に対して"できる"と励ましてくださいました。洋服が必要なのに、手持ちのお金が少しかなく古着を探しに行った時、主は私の必要を十分に満たしてくださいました。実に、主は売り手の気持ちを動かし、彼は着ていないきれいな洋服を片付けました。そして、主は私がその瞬間に発見できるよう導かれ、その洋服を買うことができるようしてくださったのです。」
「神様は私が車を必要なことをお知りになり、すぐに車を与えてくださいました。その車が故障した時も、主は通常の修理費より安く修理できるよう恵を与えて下さいました。それは主が整備士の心を感動させられ、私が修理費を払うことができたのです。」
「神様はいつも私と共におられましたが、私はまったく知らずにいました。人生の中で不公平を感じる時も、主は私が後ろを振り向かずに前に進めるように、励ましてくださいました。主は、素晴らしい夕日を背景に空を安らかに飛んでいる鳥を、私に見せてくださいました。早朝に霜で凍結した窓の外で、鳥が歌を歌えるようにしてくださいました。そうです。主はこのすべてを行い、また私をあなたの世界へ招いてくださいました。私がこれ以上孤独を感じないようにと。いかに驚くべきことでしょうか!」
このような告白の数々。主はあなたの人生の中でとても繊細で穏やかにとても細やかにやさしく共におられたということを、あなたはこれから気付くことになり、ここまでお話ししたような告白が心の奥底から出てくるでしょう。主の真心はあなたを愛することです。そして、主の愛が気付けるように、主はあなたを絶えず待っておられます。
このような主の愛を、伝えようと尽力してきた私たちクリスチャンは、恐ろしくて硬い教義や規則、聖書とあらゆる論争を用いて、あなたや他の人々を屈曲させてしまいました。そして、私たちクリスチャンは、主の優しい愛を表すべきであったのに、むしろ自己中心的で傲慢でした。毎朝、私たちに注がれる神様の愛をもって伝えるべきであったのに、そうは出来ていませんでした。この大きな過ちを心から謝罪します。
しかし、主の愛が伝えるということを妨げるすべての壁は必ずや崩されるのです。クリスチャンが主の愛を伝えることに妨げるものであったとしたら、その壁も必ずや崩されるのです。ただ、一人一人に向けた主の愛の手紙は穏やかに届けられることでしょう。これはしてもいいことであって、これはしてはいけないという項目ではなく、必ずや愛の手紙として届けられることでしょう。この後、主の愛に満ちたあなたへの手紙を発見できるようにお祈りします。